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# 2026-03-02 抽象性まるごといれちゃいました
- ぬいぐるみをまた作り始めた。早朝ミシンが使えないので手縫いでやっている。
- 手縫いぜんぜんわからないのでフィーリングで独自の縫い方をしていて、「これってもしかして”本返し縫い”を再発明したのでは!?」と思って生成AIに聞いてみたら全然ちがった。
また日記を飛ばした。日記が飛んでいる間に何をしていたかというと、アークナイツエンドフィールドをやったり、パラノマサイト FILE38 伊勢人魚物語をやったり、本を分解したり、本を読んだり、家族会議をGoogle formsでできるようにしたりしていた。
うかうかしている間に外には春が来ている。スギ花粉が我が物顔で跳梁跋扈し、ベランダのアネモネが見事に咲いた。死んだと思われたカレンデュラが信じられないところから蕾を出している。ブルーベリーが新芽をつけている。そこらじゅうに未読通知がありますという感じ。
社会情勢マジ不安すぎワロタなのだが、できるときギリギリまで生活をやる、というかそれしかないので日記を書く。短歌も書く。小説も書けるかも。
生活はストーリーではない、というのが自分の中には前提としてある、つまり、毎日毎時間毎分起こることそれ自体に連続性や因果関係はない。水滴は落ちるし夜は明ける。
では生活の面白さとはどこにあるのか?それは一瞬一瞬起きるさまざまなものごとの、それ自体の躍動性なのではないか。
短歌とか日記とかが面白いと思うのは(少なくとも私が面白いと思う短歌とか日記とかは)、一瞬一瞬をどう面白がったか、どこに躍動性がみえるのか、そのアングルが見えることが面白いのだと思う。
「何をどう面白いと思えるか」という点では動画とかZINEとかがまとめるのに適していそう、という感じがあり、作りたいな!と思っている。
しかしこれって生活にストーリーを見出そうとしてませんか?(再)よくわかりません……
久しぶりにまとまった文章を書いたら、抽象性まるごといれちゃいましたみたいなのがすらすら出てくる。これをやめたいのですが……
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# 2026-03-03
- 早朝目がかゆすぎて起床。
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