メモを消したくないと思ってObsidianを使っているのだが(あとObsidianはメモを消さないためのソフトではないのでこの文章はちょっとおかしいのだが)、どうしてそんなにメモを消したくないのかということについて考える。
「メモ」と言ってはいるけど、自分の作成したあらゆる文章のことを総称してこう呼んでいる。
もともと自分の文章に自分で納得することが苦手で、時間が経ってから見返すとだいたい自分の文章を消したくなってしまう。
消す=人々の目から消すという意味ではなく、この世から抹消したくなる。だからむかし書いた多くの文章は残っていない。
しかし、自分の文章を消すというのはあまりよくないことなのではないかとも思っている。内容が正しい、正しくない、面白い、面白くない如何じゃなくて、じぶんという読者にたいしてアンフェアだなと思う。
わたしは「読んだ文章をなるべく覚えておきたい」とSNSのプロフィールに書いている。
これは本当にそう思っているから書いてある(わたしはSNSのプロフィールに本当のことしか書きません)。
自分の読んだ文章がどこから来て、誰から来て、自分の中にどうカテゴライズされ、自分の何を変えていったのか知りたい。それを覚えておきたい。
たとえば系統樹みたいに、自分が出会った何かで何かが分岐してどんどん道が変わっていくのだと思う。その分岐を覚えておきたい。そして分岐する前のことを忘れたくない。
人の考えはすぐ変わる。というか変わっていいし、変わることを許容されるべきと思う。
でも変わる前の、過去の自分の考えをなるべく消したくない。過去の自分の考えは、現在そして未来の自分の考えと同様に尊重されるものだと思う。
一時の判断で、「必要」とか「価値がない」とかあまり判断したくない。
それでなるべく文章を消すことを控えている。
特に自分の文章に資産価値があるとは思ってない。ただ、過去の自分が心から納得して話し合える相手がいるとしたら、まあおそらく、今の自分しかいないだろうから……
この文章は初めて「Note」というカテゴリで投稿してみる。
Noteのルールとして、SNSへの共有はしないのと、かなりひとりごとっぽいことや嘘の日記、短編などを書きたい。
ここ最近、インターネットでひとくちでまとめる・まとめられることやラベル付けをされることが多いし、そのようなコンテンツが多いことにもつかれてしまう。
そんなふうに話したいわけではない。もっとちがうやり方がある気がする。
私にかつて、たまとナンシー関とトルストイの「文読む月日」を教えてくれたのはインターネットの知らない人の日記だったし、英語何もわからん時期にジャズの和訳や関連動画をめちゃくちゃ教えてくれたのもインターネットのブログだった(20数年後、このブログにObsidianというメモアプリの話でまたお世話になりかなりびっくりした)。
このブログが誰かにとってそうなったらいいなと思うけど、まあそれは望みすぎなのかも。