りんごが煮えた鍋を見ながら書いている。
前回たくさんりんごを煮たのは5年前の秋で、なぜそんなにはっきり覚えているかというとその時期働いていなかったからだ。
パートナーが会社でもらってきた大量のりんごを、これ、どうする、ということで、ひたすら剥いてジャムを作っていた。
午後だった。手元のスマホからAudibleのレイモンド・チャンドラー「長いお別れ」を流しながらりんごを剥いた。りんごの糖分で手がべたべたとした。
その頃わかったことのひとつは、自分はAudibleを聴くのが全然上手でないということだった。りんごに集中するといつのまにか知らない人間の知らない話が始まっており、そのたびにべたつく手でスマホを起動して10秒くらい巻き戻した。
山になったりんごをひたすら剥いて、Audibleを巻き戻し、剥いて、巻き戻し、剥いて、巻き戻ししているうち、とつぜんスマホが着信をしらせた。べたつく手で電話をとった。
就職活動を手伝ってもらっていた転職エージェントから、就職活動に関する電話だった。
電話口で応対しながら、しかし、私はりんごを見ていた。悪いけど。
悪いけど、いまりんごを煮ているところなんだ。
村上春樹「スパゲティーの年に」は彼の初期の短編で、実両親が住む家に置いてあった短編集で読んだものだった。
一日生きることに汲々としている(らしい)主人公が、(おそらく)生きるために毎日ひたすらスパゲティーを茹でている。しかし、よりによってスパゲティーを茹でていないときに、知り合いの元カノから面倒な電話がかかってくる。
「悪いけど」と僕は言った。
「あなた、私が嫌いなんでしょ?」と突然彼女が言った。
どう答えていいのか僕にはわからなかった。そもそも彼女には印象なんて何もなかったからだ。
「悪いけど」と僕は繰り返した。「今スパゲティーを茹でてるところなんだ」
「スパゲティーの年に」村上春樹「カンガルー日和」所収、講談社、電子書籍版、174p
過去のことを思い出すとき、ふと村上春樹の著作を重ねてしまうことがある。
村上春樹の著作について、信じられないくらい褒めたたえている文章を読んだことがあるし、同時に信じられないくらい貶している文章も読んだことがある。どちらとも言えない、まったくもって自分のための話ではないという文章も読んだことがある。
実両親の住む家に村上春樹の著作がほとんどすべて置いてあったため、幼少期からなんども読んだ。とくに「カンガルー日和」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」などを何度も。当惑しながら言ってしまえば、私の基礎のひとつは村上春樹の著作によって作られているのだろうとおもう。
その証拠に、というのが正しいかわからないが、私はどうしても村上春樹の文章や著作について評価をうまくできない。
村上春樹の著作は当時の私にとって、特に読解できるものではなかった。読解の力すらなかった。また当時の私にとっては読解する必要がないものであった。
自然現象をただ眺めるように読んでいた。
そこに評価や批評が挟まりうるということを、のちに知って驚いた。
転職エージェントからの電話のあいだ、りんごを見ながら、村上春樹の著作のことを考えていた。
そのころ進路に迷走していたこともあり、あまり転職エージェントとの関係はよくなかった。
電話が終わったあと、「長いお別れ」をどこまで聴いたか全然思い出せなかった。
それで、章の始めまで巻き戻して、またりんごを剥き始めた。